聖和家庭

聖和家庭の恩恵交換の場となれば嬉しいです。

愛は死を超えて(1) 亡き妻との魂の交流

 


上の本を読みました。心が温かくなる本です。
印象に残った内容を紹介しようと思います。癌でこの世を去ったカトリーヌという奥様との時空を超えた交流を御主人様が書いた本です。


  • その時、私は聞いた。「ダーリン、大丈夫?」という声を。私は飛び上がった。『ダーリン』だって!カトリーヌは、この上なく愛しいと思うとき、私をそう呼んでいた。しかし、そんなことなんて完全に忘れていた.........。もう疑いようなどなかった。今話しているのは、まさに彼女自身である。私の想像力のなせる業なんかではない!突如として深い喜びがいっぱいに広がった。コミュニケーションできたのだ!カトリーヌは約束を守った。すべてが正常に戻るのだ。
  • ものごとはあるべき元の場所に戻った。別れは取り消されたのだ。
  • 「ぼくはどうすればいいんだい?」「完全に頭を空っぽにするの。何も考えちゃいけない。何もね!そうすれば私の言葉は,なんの影響も受けずにはっきりと聞こえるはずよ」「意志と、それに訓練が必要ね。でもだんだんとうまくいくようになるわ。」
  • (自分も妻を追いかけて死にたいと言う夫に対して)「あなたはまだ本を通して多くの幸せを人に与えられるわ、今、私達におきていることを書けばいいじゃない」「誰も信じやしないよ。それになんのために書くのさ」「絶望している人たちに希望をあたえるためよ。死は人を永遠に飲み込んでしまう大きくて暗い穴だと考えているような人のために書くの。死は愛し合う者同士を引き裂きはしないってね。再会も、理解し合うことも、話し合うことも、互いに助け合うこともできるって教えるの。望んで、信じれば、それは可能になるのだと。」
  • 「私達はあなたの頭の中で出会うのよ。忘れないでね!」「声は聞けないのかな?」「だめだと思うわ。奇跡を期待してはダメ。奇跡を起こすのは私の領分じゃないから。でも今の状態だってそう悪くないじゃない。違う?」彼女のいうとおりだ。
  • 「わかっているでしょうけど、私はずっとあなたと一緒に入られるわけじゃないのよ。もちろん自発的に来る時もあるわ。あなたがどうしているか見たり、家の中を一回りしたり、猫たちをやさしく見つめたりするためにね。でも普通は、あなたが私を必要としたり、呼んだり、話したいと思ったりした時に来るの。今日はそんなこと、全然なかったじゃない......。私がこちら側の世界に来る前、交わした約束を思い出してちょうだい。再会するには、あなたと私の両方がそれを望まなきゃならないの。努力が必要なの。わかる?ただ与えられるだけのものなんて、何もないわ。今、私はここにいて、あなたはまだそこにいる。それにはちゃんと正当な理由があるのよ」  このお説教を忘れないよう、注意しなければ。
  • 私達は少しずつ置かれている状況に慣れていった。毎朝、私は頭をはっきりさせるため、キッチンの肘掛け椅子に座ってコーヒーを飲む。来てくれるよう、カトリーヌに呼びかけるのはそれからだ。「昨夜はよく寝れたようね」とカトリーヌが言う。「うん、そうなんだ。で、きみは?」「おバカさんね。私にはもう睡眠なんて必要がないって、知っているじゃない」彼女が美しい顔を私のほうに向け、にっこりしていると私にはわかった。彼女は付け加えた。「気遣ってくれてありがとう」それを聞いて笑ってしまった。なぜなら、彼女は話している最中、理由もなくその言葉を何度も口にするからだ。「どうして、ちょっちゅうそんなことを言うの?」「だって前には十分言わなかったもの。私は何もわかっていなかったのよ。こちら側に来てから、多くを学んだり、深く理解できるようになったりしたの。だからあなたに言うの。『気遣ってくれて、ありがとう』ってね。ただそれだけよ」
  • 私は時々、彼女の目があまりにもいきわたっているのに驚かされた。彼女は言った。「よく考えてちょうだい。私があなたを見る時、私はあなたを取り囲んでいるものすべてを見ているの。わかる?昨日、あなたは、『もう旅行なんか行きたくない。独りぼっちでいろんな国に行ったりいろんな人に会ったりしても少しも楽しくないから』って言ったわよね。でも私は間違いなくあなたと一緒に行くのよ。つまり、あなたが目にするものすべてを、私も見るということなの」と。「それとこれとは話が別だよ。だいいち、きみはずっと一緒にいてくれるわけじゃないじゃないか。きみにはやらなければならないことがいっぱいあるみたいだからね!それに、絵やオブジェや歴史的建造物の前で感嘆するきみの姿も見られないんだよ。道を渡る時、きみが腕をからませてくることもないし、評判のレストランで二人して土地の名物料理に舌鼓を打つこともないんだよ。ぼくがホテルのベッドに横たわるや否や、きみは行ってしまうじゃないか。違うよ、ぜんぜん前と同じなんかじゃないよ」「それについては、改めて話し合いましょう。今朝のあなたは機嫌がわるいから」「買い物に行くけど、きみも一緒に行く?」「もちろんよ。あなたがばかなものを買わないように見張らなきゃ。まったく浪費好きなんだから。ね、困ったちゃん」最初のころ、私は道でも彼女に大声ではなしかけていた。時として、人々は私達のほうを振り向き、いぶかしそうに頭を振ったり笑ったりした。今ではほとんどの場合、心の中で語りかける。そうすると、自分が『とりつかれた人間』になったような気がする。それは奇妙な感覚だ.......。

このご主人の言い分はよくわかります。一緒に笑ったり、感動したり、泣いたりしていた人が突然いなくなった虚しさ、つなぐ手がもう無いこと......。
でも見えないだけで存在しているという真実がどれほど希望でしょうか!

死などたいしたことではない。私はただ単に隣の部屋へ移っただけ。

私は私、あなたはあなた。

これからも他者との関係は、いままでとまったく変わりはしない。

これまでどおりの名前で私を呼んでほしい。

これまでずっとそうしてくれたように、これからも私に話しかけてほしい。

厳かな、あるいは悲しげな口調ではなく、

これまで一緒に笑い転げたものを見たら、これからも笑ってほしい。

祈ってほしい、微笑んでほしい、私のことを考えてほしい。

これまでと同じような調子で、私の名前を口にしてほしい。

いかなる仰々しさも、わずかな影も感じさせずに。

生はこれまでとまったく同様の意味を有している。

生はこれまでとまったく変わりはしない。私たちをつなぐ糸は切れてなどいない。

ただあなたに私が見えないだけ。

私はあなたを待っている。遠くに行ったりなんかしない。

ただ道の向こう側に移っただけ。

あなたにもわかるだろう、すべてよし、と。

ーシャルル・ペギィ 

 シャルル・ペギーはフランスの詩人、劇作家、思想家。 ウィキペディア





これは今読んでいる「愛は死を越えて」のなかに出てくる詩です。この本は実話で、カトリーヌという最愛の妻を亡くしたご主人の手記みたいなものです。
亡くなった奥さんが出版を切に望みました。それはおなじように愛しい人を亡くした方に希望を与えるためです。
ご主人は奥さんが亡くなったあと自殺も考えたようですが、奥さんからの交信が始まり、今までのように妻がそばにいてくれるという希望と喜びが湧いてきます。そして様々なことで奥さんが彼を助けてくれます。


次回から印象に残った内容を記していきたいと思います。

愛は死を越えて

「愛は死を超えて」フィリップラグノー著、アマゾンで中古300円で購入しました。


本の帯には常軌を逸した書物か!?愛の極みか!?と大きく書かれています。
また死は永遠の別れではない。悲しみの涙はやがて喜びの涙に変わる。
存命中に約束したとおり、夫とのコミュニケーションをとり続ける亡き妻。
本当にそんなことがあるのか!とも。


とても興味をそそられる本ですね。まだ最初の方の、奥さんの闘病シーンしか読んでいません。 読んだらブログにあらすじと感想をあげます。少しお待ちください(__)



今日のタイトルにふさわしい証をのせます。まさに「愛は死を越えて」です。


      共に生きる道 三船みち子(1800双)

2003年12月12日、三船雅啓さん(1800家庭)は、病気のため52歳で昇華しました。
その昇華の報を聞かれた真のお父様は、三船さんに「祝天國入城 三船雅啓君」と贈り名を下賜されました。以下は、夫人の三船みち子さんが、三船雅啓さんとの生前の思い出と、昇華後に霊的に三船さんが現れたことなどについての証しです


夫との出会い


 わたしが初めて夫と出会ったのは、一九七五年一月の下旬、八幡山のボウリング場(東京都世田谷区)でした。マッチングの会場となったボウリング場には、全国から祝福を願う食口たちが上京していました。
 信仰の幼いわたしは、祝福を待ち焦がれるというより、むしろ裁きの場に引かれていく罪人のような気持ちでした。
 心の奥底では、〝もしかしたら、わたしのようなものでも、救いのみ手の中に入ることができるかもしれない。〟と思う反面、〝わたしのような者が赦されるはずもない。〟という思いが、重くのしかかってきました。そのような心情を抱きながらも、すべてを神様のみ手にゆだねようと、真のお父様のみ言に耳を傾けました。


 真の御父母様によって、夫とマッチングされた時の。ことは、今でも鮮明に覚えています。
わたしがマッチングされたときは、男性が一人ずつ立たされ、その人にふさわしい相手を真のお父様は、広い会場じゅうを回りながら探してくださいました。そのときの真のお父様は、鼻歌を歌いながら本当にうれしそうでした。
 夫が立たされた時、真のお父様は顔をくしゃくしゃにして、声を出して笑われました。ライトに照らされた夫は、胸を張って堂々とうれしそうにほほえんでいました。見るからに、夫は元気いっぱいという感じでした。「おまえには、大きい女の人がいいんだよ。」これが夫とわたしに語られた、永遠の宝となるみ言でした。
 わたしは下を向いていましたが、真のお父様の指がわたしに、「立ちなさい。」と指されていることがすぐに分かりました。わたしたちは、真の父母様の前に敬拝し、互いの名前を書くと、地下の部屋で話し合うように言われたのです。その時、何を話したのかはあまり覚えてはいませんが、わたしから多くは語っていなかったように思います。
 夫は、〝メシヤが、自分だけのために時間を使ってくれた。自分のために、真剣に永遠の伴侶を探し出してくれた。〟と、ただただ感動し、喜んでいました。
 わたしは、夫の声をぼーっと聞きながら、「お父様、ありがとうございます。あなたを悲しませることは絶対いたしません。あなたが与えてくださった、たった一人の男性から最後のその時に、『あなたのゆえに、わたしは生まれてきて本当に良かった。』と言ってもらえるようにしますから、どうぞ見ていてください。」と祈りをささげました。


 家庭を出発して


 祝福を受けてからの五年間、わたしたちは別々に神様のみ旨を歩みました。わたしは毎日
が前線で、神様と二人三脚の歩みでした。いつも神様が側にいらっしゃって、一日歩み終えて祈ると、きょう一日を導かれた神様に、涙を流さずにはおれない恵みの期間でした。
 その時、苦労を共にした女性たち一人ひとりを、わたしは決して忘れることはないでしょう。
夫と出会う時でさえ、前線を歩んでいる女性たちのことを思うと、申し訳なく思いました。


 夫は、わたしと会うことをいつも心から喜んでくれました。わたしは、少女時代、病弱で静かな性格でしたから、独りでいろいろ考えるのが好きでした。教会に来ても、目立つの嫌で、ただこつこつと人の見えない所で、神様を慕っていきたいと思って歩んでいました。ですから、結婚など考えたこともなかったのです。
 そのようなわたしだったので、神様から与えられた一人の女性(わたし)を心から受け入れ、全身で喜びを表現してくる夫には、本当に戸惑いました。しかし、そのような夫の愛に、氷のようなわたしの心も少しずつ溶かされ、いつしかどきどきしながら夫との再会を待ち望むようになったのです。


 真のお父様は、一週間に一度、相対者(主体者)に手紙を書くようにおっしゃったので、わたしは家庭を出発するまで手紙を出し続けました。夫からは、五年間に一回しか手紙が来ませんでしたが、夫が読んでくれると思うだけで、うれしくて手紙を書き続けました。


 1980年春、家庭を出発するようになりました。当初、生活は楽ではありませんでしたが、夫は毎日、口笛を吹いて帰って来ました。
 いつも深夜の帰宅でしたが、同じアパートの婦人たちに、「三船さんが帰って来るのは、口笛が聞こえるからすぐ分かるね。」と言われるほどでした。
 少ないお小遣いの中で、いちごやケーキやわたしの喜びそうなものを買って帰る夫でした。あるとき、責任者として真の父母様の元に行かせていただいた夫は、真のお母様からお小遣いを頂きました。その時、夫は食口たちと子供たちにおみやげを買い、残ったお金のすべてで、わたしにネックレスを買ってプレゼントしてくれました。わたしには、高価な高価なプレゼントでした。


 夫は出張から帰るといつも、「ただいま。みち子さん、寂しかった?」と、わたしに聞いてきました。寂しかったのは、夫だったのだと思います。
 あるとき、夫は、「わたしが心を開くことができるのは、みち子さんしかいないから。」と、つぶやくように言ったことがありました。夫は、だれといる時も緊張しているというのです。
わたしが受け止めてあげなければ、心の行き場のない夫だったのかもしれません。
 夫は、世の中の風評や、人間関係などで信仰を揺るがすことは決してありませんでした。
わたしが、さまざまなことで悩んでいることを夫に話をすると、いつも黙って聞いてくれました。
 そして一言だけ、「お父様以外のだれを信じてあなたは来たの?」とか、「キリストの愛以外、人を救うことはできないと私は思うよ。」とかアドバイスをしてくれました。でも、それでわたしの中のすべてが、すーっと解決するのでした。


 わたしは、自分の周りに起きたことを何でも夫に報告し、夫は自分の責任分担については、ほとんど何も話しませんでした。
 ただ、わたしが五年半前に小さなお店をオープンするようになった時、夫はそのことを
とても喜び、そして雄弁になりました。インテリアのランプの一つも、自分で選んで買って
きました。神様の願うビジネスについて語り合う時、わたしたちは時間を忘れ、至福の時を
共有できるようになったことが、何よりうれしいことでした。


 夫の入院と昇華


 後に夫は、重要な責任を天から頂き、命掛けで天の願いに応えようと歩んでいました。机の上も周りも、体が埋もれてしまうほどの本と書類が積みあげられていました。食事を食べながらも、本を読みながらも、テレビを見ながらも、頭に浮かんだことをすぐノートに書き留めていました。
小さい文字でびっしりと書き綴られたノートが、何十冊も残っています。
 寝たきりの夫の母親を介護するわたしの姿を見ながらも、目に入らないほどに深刻に独り祈る夫の姿がそこにありました。


 眠ることもできず、ふらふらになりながら歩んでいたのです。だれよりも強健だった夫が、「疲れた、疲れた。」と言うようになったので、「お父さん、休んだほうがいいよ。」とわたしが言っても、絶対に耳を貸しませんでした。
 倒れる前の夫の姿は、本当に痛々しいものでした。でも夫は、絶対に後には引かない、前に進むことしか考えていないように、わたしには見えました。
 ですから、夫が倒れた時、「これでやっと夫を休ませてあげることができる。」と、わたしはむしろほっとしたほどでした。最期を迎える一、二年間くらいは、睡眠時間は一時間もあるかないかのような生活を続けていたからです。


 夜中じゅうパソコンに向かい、本を読み、資料をまとめていました。また、電話で人の話を黙って聞いてアドバイスしていることもありました。片時、休んで目覚めると、「きょうも真の父母様が夢に出てこられた。」と話していました。いつも真の父母様に夢で導かれていたようです。


夫は、2003年10月末、韓国の出張から帰ると体の不調を訴え、家で休むようになりました。
多少のことでは休まない夫でしたから、よほど体調が悪かったのでしょう。そのうち、ご飯も食べられなくなり、11月初めに入院することになりました。入院後も、微熱が続き、原因が特定できない日が続きました。今にして思えば、すでに夫の肉体は、限界を超えていたのだと思います。


 1か月間、お店と両親の世話を済ませ、夕方から終電車の時間まで、夫の側にいました。毎日、夫からわたしの携帯電話に、「ママ早く来て、ママ早く来て。」というメールが届き、わたしは一分でも早く夫の所へ行きたい気持ちでいっぱいでした。
 1か月間の入院中、一度夫が、「足をきれいにしてほしい。」と言いました。夫の足は、以前はつるつるできれいでしたが、血行が悪くなったせいか、びっくりするほど角質だらけの足になっていたのです。看護師さんにお湯を容器に入れてもらい、夫の足を温めました。


 それから顔を剃るカミソリで、丁寧に角質を取り、クリームでマッサージしてあげました。夫は、「気持ちがいい。」と、にっこり笑い、「ママにいっぱい借りができちゃったね。」と言いました。
それが夫がわたしに見せた、最後の本当にすてきな笑顔でした。
 11月末、急に肺の具合が悪くなり、近くの大学病院に移ることになりました。転院して翌々日、病院に行くと夫のようすが一変していました。一体、何が起きたのだろうと戸惑いました。


 夫に人工呼吸器を取り付けるというのです。夫はわたしを呼び、聞き取れないような小さな声で、「そうするしかないんだよ。」と、説得するような目で言うのです。
 そのとき夫は、「わたしが、先に行ったらどうする?」と聞きました。わたしは取り乱し、目に涙をためて首を横に振りました。すると、弱々しくもにっこり笑いかけ、わたしの手の上に自分の手を乗せて、やさしく愛撫してくれたのです。
 すでに夫は、その時に覚悟を決めていました。最後の闘いに挑む戦士のように、わたしには見えました。本当に潔い夫の姿でした。


 たくさんのかたが夫のことを心配し、快復を祈ってくださいました。病院には毎日、山のようなお見舞いカードが届きました。わたしは、意識の無い夫の耳もとで、そのカードを一枚一枚読んであげました。
 「お父さん、本当にごめんなさいね。何もしてあげられなくて、本当にごめんなさいね。」と、泣きながら話しかけると、夫の目からすーっと一筋の涙がこぼれたのです。
 夫には、わたしの声が聞こえていることが、その時にはっきりと分かりました。最後の時には、たくさんの食口たちが子供たちとともに夫を取り囲み、息を引き取るその時まで、口々に「頑張れ!」と語りかけてくれました。
 2003年12月12日午前1時1分、夫は壮絶な闘いの後、地上での人生を終えました。わたしは夫に、「お父さん、本当に御苦労様でした。」と語りかけた時、笑みさえも浮かんできたのです。
あまりに立派な夫の最期でした。


 「愛勝日」と昇華四十日後の出来事


 夫が昇華した後、夫の両親は二人同室の施設に無事、入れることができました。上の二人の子供たちは、大学へと戻っていきました。ほっと一息ついた時、本当の悲しみが襲ってきたのです。
 わたしの前から、たった一か月間で逝ってしまった夫。夫は、今どうしているのだろうかと思いながら、わたしは一日じゅう真のお父様の霊界に関するみ言や、李相軒先生の霊界からのメッセージを読み続けていました。


 〝あのとき、わたしがこうしなければ、あのときわたしがこうしてさえいれば。〟そのような思いだけが駆け巡っていました。


 〝わたしは夢を見ているに違いない、早く目覚めなければ。〟眠ってもいないのに、漠然とそのようなことを繰り返し繰り返し考えていたのです。そのような中で、わたしは奇跡とも思える体験をするようになりました。


 それは、夫が昇華して21日目の1月2日、「愛勝日」の早朝のことです。わたしは、その夜も眠れずにずっと夫のことを考えていると、布団の足元の方にだれかが座っているのです。
〝だれが入って来たのだろう?〟と、びくっとして目を凝らして見ると、それは夫でした。
わたしの意識ははっきりしており、夢ではありません。


 驚いたわたしは、「お父さん。」と声をかけました。その次の瞬間に、夫は全体が光の塊になって、わたしの足先から頭の上まで、火の玉のようになってわたしを包んでいきました。
 それは、日に干したお布団に身体をうずめた時のように温かく、お母さんの胸に頬をうずめたときのように慈愛に満ちたものでした。温かな光は、わたしをすっぽりと包み、体がふわっと宙に上がっていく感じがしました。


 わたしは、その日、夫が病に倒れて以来、初めてぐっすり眠ることができたのです。この夫との再会は、わたしにとってあまりに衝撃的なものでした。 
 昇華して40日目の早朝、再び夫との再会がありました。やはり眠れずにぼうっとしていたわたしの前に、王座のような椅子に座って、まぶしく神々しい姿の夫が現れたのです。
 ものすごく大きい姿で、この世のものではないということがすぐに分かりました。わたしは、夫の右側に、夫を慕い良く侍ってきた婦人が左側に、ともに立ち膝のような格好で座っていました。
 わたしは、やっと会えたという気持ちで、夫の手を握りました。その姿は神々しくて、この世のものではありませんでしたが、夫の手はあまりにも肉感的でした。ごついけれど、温かくて、指が短くて正に夫の手でした。わたしは、霊人の手も温かいことに、本当に驚きました。
 夫はその時、「あなたたちはね、最後までよく人の話を聞きなさい。」と言いました。そして、すっと消えていったのです。時計を見ると、午前3時ごろでした。


 昇華した夫との夫婦生活


 2004年4月9日、午前三時半ごろのことです。いつものように眠れなくて、うとうとしているうちに、わたしは浅い眠りに就きました。子供たち五人と、実際は亡くなっている母親と夫が共にいる夢でした。わたしは母親に、「お母さん、うちの子供は四人だっけ、五人だっけ?」と聞いているのです。
 お世話になっているかたのお子さんが家に来ていて、わたしの子供たちと仲良く遊んでいるので、自分の子供が何人だったのか分からなくなってしまったのです。
 母親が「四人よ。」と応えてくれました。わたしは、わたしの前にむこうを向いて横になっている夫に、「わたしったら、自分の子供の数も忘れちゃって。」と話しかけたのです。そして、夫がこちらを向いた時、夫はもうこの世にはいない人だったことに気がつきました。


 そこで、「お父さん来てくれたのね、会いたかった。」と、夫と抱き合いました。それは夢というより、なまなましい現実的な感覚の抱擁でした。服を脱いでいないのですが、肌と肌が触れ合うのです。
 抱きしめ合い、胸と胸をつけ、脚を絡ませ合って、激しくキスをし合いました。懐かしい匂いと温かさが、そこにはありました。霊界の夫婦生活は、具体的であることがその時に分かりました。
 それは、あまりにも美しく、感動的な体験でした。やがて夫は、「じゃまたね。」と言って手を振って去っていきました。すでに、わたしの意識ははっきりしていました。わたしは、神様と真の父母様に感謝の祈りをささげました。


 次に夫がやってきたのは、5月14日午前2時過ぎでした。子供たちのことをあれやこれやと考えていると、わたしの体の上にドーンと何かが乗ってきたのです。
 その温かな心地良い重さは、夫であることが分かりました。わたしは、何とか声を出そうとするのですが、声を出すことができず、振り絞るように「パパありがとう、パパありがとう。」と、きてくれた夫に言っていました。
   暗闇の中で、何とか夫の姿を見たいと思い、首を後ろにぐっと上げると、実際は無いのですが、黒光りしたタンスに夫の姿が映っていました。
「ああ、やっぱりお父さんだった!」わたしたちは激しく抱き合い、激しくキスをし、意識がはっきりあるままに、実体の夫婦のように愛し合いました。長い長い時間が、経過したように思われました。言葉なしに、お互いのいろいろな思いを交わし合いました。これは、
夢とは違う特別な体験でした。


 いつも見守っていてくれる夫


 昇華以来、夫の夢は毎日のように見ていますが、次のような夢がありました。
 ある日、夢の中で夫が突然、「さあ、これからハワイに開拓に行くよ。」と言うのです。わたしは、
「えっ、ハワイに開拓といっても、お金はどうしたらいいんだろう?」と、現実的になりながらも、お金の工面をして夫と一番下の息子と飛行機に乗ってハワイに行きました。
 それから、乗り合いバスみたいなものに乗って、ハワイに住んでいる祝福家庭を一軒一軒訪ねて回り、苦労してきた話を一緒に泣きながら聞いて回りました。


 わたしは、真の父母様がハワイの地で精誠を尽くされる中で、夫の昇華があり、真の父母様に覚えられて霊界に出発することができたので、ハワイの地に恩返しを夫がしたかったのではないかと、自分なりに考えました。
 最近では、夫が修練会をしている夢を見ました。百人くらいの人が集まっている所で、ずっと夫が講義をしていました。わたしもその中に行くと、夫はわたしに気がつくのですが、みんながいるため、「ああ来たの。」と、さりげなく声をかけてくれました。その時、夫から言われたのは、「悲観的な思いと行動は慎みなさい。」ということでした。


 わたしは、夫が昇華してから数か月間、全くお店に出ることができず、チーフをお願いしている女性と、もう一人のスタッフに店を任せていました。そんなとき、チーフが、「これからは、一家を背負って行かなければならいのだから、彼女には辞めてもらったらどうですか?」と、アドバイスをしてくれました。確かに、彼女自身による売り上げは、本当に少なかったのです。
 どうしたものかと思いながら、夫の持ち物を片付けていると、「〇〇さんはいい子だよ、育てなさい。」という、夫の声が聞こえてきました。わたしはすぐチーフに、「お父さんがこう言うから、一緒にがんばってみよう。」と返事をしました。その後、彼女は、店に無くてはならないスタッフに成長しているのです。夫のアドバイスは、本当に的確でした。


 それで、わたしが今、実感していることは、〝わたしたちは共に生きている。〟ということです。
わたしが、いつも夫のことを思っているということもまた、夫がいつもわたしを見守っていてくれるからだと思います。いつも夫がともにいて、勇気づけてくれているように感じるのです。
 夫の昇華は、深い神様の愛と共に、多くの人々の愛の中にわたしが生かされていることを、また教えてくれました。


 「祝天國入城 三船雅啓君」


 最後に、真の父母様から賜わった夫への揮毫について、報告を受けたことを紹介します。
真の父母様は、2003年12月11日に韓国からハワイに行かれました。行かれてすぐに、劉大行先生をお呼びになりました。劉大行先生は、同月12日の夜遅くハワイに行き、13日に真の父母様に夫の昇華を詳しく報告してくださいました。


 真のお父様は、すぐその場で昇華した日時「2003年12月12日午前1時」と、
「祝天國入城 三船雅啓君」と揮毫してくださいました。
そして、「新しい摂理時代に入りました。心配しないで頑張りなさい。」というみ言を、同時に語ってくださったそうです。このことは、日本には同月14日午前12時ごろに伝えられました。


 このとき、真の父母様は、ハワイにおいて特別な精誠を尽くされている期間でした。その精誠を尽くしておられる真っ最中に、夫の昇華の報告を聞かれて、このような揮毫を書いてくださったのです。
 さらに同月15日の朝の訓読会を終えられると、真の父母様は「ハワイで尽くした精誠の期間がこれで終わった。」と語られ、真のお父様のろうそくと、真のお母様のろうそくの「解放のろうそく」をその後、わたしたちに伝授してくださいました。
 このような経緯を知るにつけ、重大な摂理の転換期に、夫が霊界に出発したことに感謝をささげるとともに、霊界での夫の活躍を心から願っています。


          ファミリー 2005年9月号掲載